謙然学社甄観文庫・方術の間

創刊号 ・ 風 水 篇

風水はどこから来たのか——占いではなく、三千年の環境思想史として

方術の間第一回 / 東アジア環境思想史

現代の日本で「風水」と聞いて思い浮かぶのは、おそらく「西に黄色を置けば金運が上がる」といった、色と方位を結びつけた開運術のたぐいであろう。この像は、一九九〇年代のブームによって強く刷り込まれたものである。しかしそれは、三千年におよぶ長い水脈の、ごく最近に汲まれた一杯にすぎない。本稿は風水を占いとしてではなく、東アジアの人々が土地と環境をどう読もうとしたかという、一つの思想史として読み直す試みである。

なぜ「歴史として」読むのか

風水を「当たるか当たらないか」で論じるかぎり、話は信じる者と嗤う者の水掛け論に終わる。だが問いを立て替えてみたい——なぜこの技術は生まれ、なぜ数千年ものあいだ捨てられなかったのか、と。すると風水は、まったく別の相貌を見せはじめる。それは前近代の人間が、地形・水利・気候・方位という測りがたいものを、当時手にしうる言葉で体系化しようとした環境認識の技術であり、同時に、宗族の結束や地域社会の秩序を支えた社会制度の一部でもあった。占断の一言一句の当否ではなく、その言葉がどんな社会でどう機能したのかを見る。これが「歴史として読む」ということである。本稿では、いっさいの実践手法を扱わない。ただ、術が史のなかでどう立ち現れたかを追う。

起源——相地術と、都を卜で選んだ時代

風水の最も古い水源は、「風水」という語すらまだ存在しない時代にある。周代の人々にとって、住まいや都をどこに構えるかは、共同体の存亡を左右する第一級の決断であった。彼らはそれを相地(そうち)——土地を相(み)ること——と呼んだ。

既(すで)に景(かげ)にし乃(すなわ)ち岡(おか)にのぼり、其(そ)の陰陽を相(み)、其の流泉を観る。『詩経』大雅・公劉——周の始祖が新たな邑を営むにあたり、日影で方位を定め、丘に登って山の南北(陰陽)を見、湧き水の流れを観たと歌う一節。

ここに占術めいたものは何もない。日照・地形・水源という、生存に直結する条件を実地に観察しているだけである。もう一つの源流は卜宅(ぼくたく)——住処を占い定めること——であった。『尚書』召誥には、周公が新都・洛邑の地を卜で選んだと記される。相地が経験的な観察であり、卜宅が神意を問う占いであったとすれば、風水とはこの二つの流れ、すなわち観察と占いが、後の時代に一本に撚り合わされていったものだと言える。その根には、大地は生きて呼吸するという、東アジアに深く根ざした感覚が横たわっていた。

漢代——堪輿と、陰陽五行の合流

ばらばらだった観察と占いの糸を撚り上げる「撚り車」の役割を果たしたのが、漢代に一つの宇宙論へと統合された陰陽五行である。もともと別系統だった陰陽の思想と五行の思想は、漢代に至って万物を貫く一枚の座標系へと合流し、天文・暦法・医学・そして地を読む術の、共通の文法となった。

この時代の地を読む術は、まだ「風水」ではなく堪輿(かんよ)と呼ばれた。堪は天、輿は地を指し、本来は天地そのものを意味する語である。『漢書』芸文志は五行家のうちに『堪輿金匱』を数え、司馬遷『史記』日者列伝には堪輿家が登場する。ただし注意を要するのは、漢代の堪輿が今日の風水とは似て非なるものだった点である。それはむしろ、日取りの吉凶を星の運行と暦の禁忌から割り出す択日(たくじつ)の術に近かった。地相を読む営みへと堪輿の語が寄っていくのは、さらに後代のことである。名は同じでも、中身は時代とともに移ろう——術の歴史を読むうえで、この「語のずれ」は繰り返し立ち現れる。

唐宋——峦頭と理気、二つの伝統の分岐

「風水」という語そのものは、東晋の郭璞に仮託された『葬書』に初めて姿を見せるとされる。

気は風に乗ずれば則ち散じ、水に界(かぎ)らるれば則ち止まる。古人は之を聚(あつ)めて散ぜざらしめ、之を行(めぐ)らせて止まる有らしむ。故に之を風水と謂(い)う。郭璞に仮託される『葬書』の一節。地中をめぐる「生気」は、風に遭えば散り、水に行きあたって留まる——だから風を蔵(おさ)め水を得る地を選ぶ、という「蔵風得水」の理。これが「風水」という語の由来とされる。

唐から宋にかけて、この地を読む術は大きく二つの構えに分かれていく。一つは山河そのものの形勢を読む峦頭(らんとう)——龍脈のうねり、砂(周囲の山)の配置、水の流れという、地形の視覚的観察を重んじる系統。いま一つは、方位・干支・卦を羅盤の上で計算する理気(りき)——目に見えぬ気の流れを数理と象数によって割り出す系統である。前者を形勢派、後者を理気派と呼ぶ後世の分類は、ここに淵源する。

ただし——通説はこの分岐を、唐末の楊筠松(号は救貧)が形勢と理気の両派を開いたと語る。だが史料に即して見れば、これは慎重に扱うべき話である。理気という哲学的語彙が思想界で熟すのは南宋の朱子学の中においてであり、その主舞台は福建であった。楊筠松の生きた唐末に、「理気」の語をもって一派を立てる条件はまだ整っていない。二派の分岐は、一人の祖師の発明というより、方言差ゆえに全国統一が破綻した旧来の官製技法と、南宋に成熟した士人の理学的言語とが、地域を異にしながら別々に育った結果と見るほうが、事実に近い。祖師伝説の多くは、後世に層をなして積み上げられた附会である。

職業史——風水師という生業のなりたち

術がいかに精緻でも、それを担う人間がいなければ社会には根づかない。ここで見ておきたいのは、風水が単なる知識ではなく、一つの生業(なりわい)として社会に埋め込まれていた事実である。

元代には天文・暦・地相を扱う技術者を管理する官制「陰陽学」が置かれ、地方には陰陽生と呼ばれる者が編成された。明代の記録によれば彼らは徭役の一部を免ぜられる制度的優遇を受けていたが、中央の欽天監へ上る道は狭く、地位も正規の科挙官僚には遠く及ばなかった。そこで彼らは民間へと市場を開き、択日・宅相・葬地の選定といった需要に応じていく。風水書が明清に爆発的に増えるのは、術そのものが突然「進歩」したからではない。県令クラスの地方官と陰陽生の制度が、いわば権力の地方への浸透とともに、知識を基層社会へ運ぶ回路となったからである。

そして忘れてはならないのは、地師たちが果たした社会的役割である。彼らはしばしば、官の手が届かぬ場所で冠婚葬祭を差配し、村落の紛争を仲裁し、不幸に見舞われた人々に説明の枠組みを与えた。技術の巧拙よりも人情の機微に長けた地師が重んじられたのは、その職能の本質が基層自治の担い手にあったからである——この生業の生態と、そこに渦巻く人間模様については、本連載で稿を改めて詳しく描くことにしたい。

東伝——日本で分かれた、家相と風水の道

大陸で育ったこの術は、海を渡って日本に入ると、独自の変容を遂げる。七世紀、律令国家は天文・暦・卜占を司る官として陰陽寮を置き、地を読む知もその一部として受容された。やがてそれは日本の風土・信仰と溶け合い、方位の禁忌や鬼門の観念を核とする陰陽道へと結晶していく。

さらに江戸後期には、庶民の住まいの吉凶を説く家相(かそう)が都市を中心に広く流行した。家相書が数多く版を重ね、明治維新のころには十五を超える流派が乱立したという。ここで興味深いのは、家相が中国の陽宅風水とはっきり袂を分かった点である。椅子と寝台の文化である中国に対し、畳を敷きつめて床に座り臥す日本では、間取りの吉凶も、部屋を構成する要素も、おのずと別の論理を要した。家相は借り物ではなく、日本の生活様式に合わせて組み替えられた翻案だったのである。

そして冒頭に触れた「西に黄色で金運」——あの色彩開運術としての「風水」が日本の茶の間に広まるのは、ようやく一九九〇年代のことである。建築家出身の実践家が、家相や気学の素地の上に平易な開運法を説いてブームを起こした。つまり、いま多くの人が「風水」と呼ぶものは、三千年の水脈の最下流に、ごく最近になって現れた枝流にすぎない。源をたどれば、そこには周代の丘に登って水を観た人々の眼差しがある。

結語——術を史として読むと、何が見えるか

相地術から堪輿へ、堪輿から峦頭と理気へ、そして陰陽道と家相へ。こうして水脈をたどり直すと、風水はもはや「当たる占い」でも「愚かな迷信」でもなくなる。それは、前近代の人間が、測定器も統計もない時代に、土地と環境と人生の不確かさを何とか読み解こうとした思考の集積として立ち現れる。そこには誤りも附会も多い。だが同時に、地形と水と気候を軽んじては暮らしが成り立たぬという、静かで確かな経験知も畳み込まれている。

術を史として読むと、二つのものが見えてくる。一つは、人が環境をどう認識してきたかという思想の地層。いま一つは、その知が社会のなかでどんな役割を担わされてきたかという制度と人情の風景である。占うためではなく、理解するために——方術の間は、この構えで東アジアの術の来歴を一つずつ掘り起こしていく。次回以降、四柱推命の起源、羅盤という機械、風水師という職業の社会史へと、水脈をさらに深く遡っていきたい。

中文摘要

现代日本人一提「风水」,多想到「西方放黄色招财」之类开运术——那不过是一九九〇年代泡沫期掀起的热潮所塑造,是三千年长河最下游、晚近才舀起的一瓢。本文不问风水灵不灵,而把它当作一部东亚环境思想史来读。源头有二:周代「相地」(登丘观山之阴阳、察泉之流向的实地观察,见《诗经·大雅·公刘》)与「卜宅」(问神意以定居所,见《尚书·召诰》)——一为经验,一为占卜,后世撚合为一。汉代阴阳五行合流为共通文法,「堪舆」(堪为天、舆为地,《汉书·艺文志》著录《堪舆金匮》)此时实近择日之术,与今风水貌合神离。「风水」一词始见于托名郭璞的《葬书》「气乘风则散,界水则止,故谓之风水」。唐宋分出重地形的峦头(形势派)与凭罗盘算方位的理气派——然「理气」话语实熟于南宋福建之朱子学,唐末杨筠松开两派之说当审慎待之,祖师传说多属后世层累附会。制度上,元设阴阳学、明有阴阳生免役,风水书于明清激增乃「权力下乡」之副产品,地师真正职能在于填补官治不及处的基层自治。东传日本后,经陰陽寮、陰陽道,至江户后期结晶为迥异于中国阳宅的「家相」——椅座寝台之中国与铺畳席地之日本,吉凶之理自不相同。把术当史读,所见者,是前近代人认识环境的思想地层,与这套知识在社会中承担的制度与人情。