心地の間謙然学社・甄観文庫 別院

創刊篇・序

南懐瑾という人
——禅・儒・道をひとつの灯りに

なん・かいきん 一九一八—二〇一二

灯りは、それをともした人を見ずには、なかなか手にとれない。この専欄の序として、まず南懐瑾(なん・かいきん)という人の輪郭を、確かめられた事実の範囲で描いておきたい。以下、生没や年次は複数の資料で照合した事実に限る。

一 温州から峨眉へ

南懐瑾は一九一八年三月十八日、中国浙江省温州の楽清に生まれた。幼くして家庭の教えを受け、少年期から諸子百家に親しんだと伝えられる。一九三五年には浙江国術館に学び、武術や兵学にも身を投じた。文と武、その両方を若くして身につけたことは、のちに彼が学問を机上の空論としてではなく、身をもって証すものとして語りつづけたことと、どこかで通じている。

やがて日中戦争の戦火のなかへ、青年南懐瑾は身を投じる。四川に移り、中央軍校の軍官教育隊で教鞭をとった。そしてこの戦時の四川で、彼は生涯の転機に出会う。一九四二年ごろ、成都近郊の青城山で禅者・袁煥仙と出会い、その門下に入るのである。袁煥仙が成都に開いた「維摩精舎」で、南懐瑾は首座の弟子となった。武人が禅者へと深く傾いていく——峨眉山の閉関は、この師との出会いの延長線上にあった。

一九四三年、二十六歳の南懐瑾は峨眉山に上って剃髪し、大坪寺に僧として入る。そして数年におよぶ閉関に籠もり、寺に蔵された『大蔵経』の全巻を読み通したと伝えられている。のちには多宝寺へ移ってさらに関を続けたという。膨大な仏典を独り読み切るというこの経験が、彼の学問の底荷となった。閉関を終えたのち、彼はふたたび在家に還る。生涯を通じて南懐瑾が「居士」——出家せぬまま仏道を生きる者——として立ちつづけたのは、この一度の出家と還俗を経ているからである。

二 台湾の講壇と「国学ブーム」

一九四九年、南懐瑾は中華民国政府とともに台湾へ渡った。以後、政治大学・輔仁大学・中国文化大学などで教鞭をとり、あわせて各地の団体で講席を持つ。彼の著作の多くは、この講義の録音や筆記を整えたものである。理路を組み立てた論文ではなく、聴衆を前にした肉声がそのまま本になっている——ここに南懐瑾の書物の独特の手ざわりがある。

代表作『論語別裁』は一九七六年に世に出た。『論語』を章句の訓詁からではなく、経と史を突き合わせ、人生の実際に引きつけて読み解くこの一冊は、両岸で版を重ね、のちの「国学ブーム」の火つけ役のひとつとなった。『孟子旁通』『原本大学微言』『易経雑説』など、その著述は三十種を超える。もっとも、学術の側からは『論語別裁』の考証上の誤りを指摘する声もあり、彼はいわゆる専門の考据学者ではない。むしろ、埋もれかけた古典を現代のことばで人々の手もとに運び直した「伝え手」として読むのが、公平な見方だろう。

台湾ののち、南懐瑾はアメリカや香港にも居を移し、旅する講席をやめなかった。国も海峡も越えて、聴きに来る者があれば語る。彼の教えが本のかたちで残るとき、そこには教壇の肉声の息づかいと、脱線も冗談も含んだ即興のリズムがそのまま封じ込められている。本欄が伴読する『南禅七日』もまた、そうした肉声の記録のひとつである。だからこそ私たちは、整えられた文章を「読む」というより、その場に居合わせて「聴く」ように、彼の言葉と向き合うことになる。

三 三家をひとつの灯りに

南懐瑾の学問の芯を、あえて三つに絞るなら、こうなる。第一に、儒・仏・道の三家を対立させず、ひとつの灯りへ束ねて語ったこと。彼にとって三家は別々の宗派である前に、同じ生命の問いに別々の言い方で答えたものであった。第二に、経と史を突き合わせて読む「経史合参」の姿勢。古典の一句を、それが語られた時代と人事のなかに戻して読む。第三に、学問の目的をどこまでも「做人」——人となること、坐りかたや息のととのえかたといった身の実地——に置いたことである。頭で覚えた知識ではなく、身をもって証すことを、彼はくり返し求めた。

晩年、南懐瑾は江蘇省蘇州の太湖のほとりに居を定める。二〇〇六年、呉江の七都鎮廟港、太浦河のかたわらに開いたのが太湖大学堂である。同年の初講は、まさに「禅修と生命科学」をめぐるものであった。伝統の修証と現代の認知科学・生命科学とを結びつけて考える——本欄が伴読する『南禅七日』の主題とも、まっすぐにつながっている。二〇一二年九月二十九日、南懐瑾はこの太湖大学堂で世を去った。九十五歳であった。温州に生まれ、峨眉に籠もり、台湾に講じ、太湖に終わる。一本の灯りが、ゆっくりと燃え尽きたのである。

四 なぜ今、日本で読むのか

では、なぜ今この人を、日本語で読むのか。ひとつは、日本の私たちがすでに南懐瑾と同じ古典の水脈を分かち持っているからだ。『論語』も『易経』も禅も、この列島の教養の底を流れてきた。もうひとつは、彼の学びかたが、情報の速さに疲れた現代にこそ効くからである。知識を溜めるのではなく、身をととのえ、人となる。三家の垣根を越えて、同じ一つの問いに向き合う。その姿勢は、宗派や国境の手前にある。だから私たちは、南懐瑾を「解説」するのではなく、その灯りのそばに坐って、伴に読む。次回からいよいよ、『南禅七日』の第一夜を開く。

この序から持ち帰る一問

あなたの学びは、頭に溜める知識だろうか。それとも、身をととのえ、人となるためのものだろうか。

中文摘要

南怀瑾(1918—2012),浙江温州乐清人,中华传统文化的传播者。1943年,二十六岁的他辞去教官之职,登四川峨眉山剃发为僧,闭关三年通阅《大藏经》,后还俗,终身以居士身立世。1949年随民国政府迁台,任教于政治大学、辅仁大学、文化大学等,其著述多由讲课录音整理而成。1976年问世的《论语别裁》以经史合参、贴近人生的读法风行两岸,成为“国学热”的火种之一,另有《孟子旁通》《原本大学微言》《易经杂说》等三十余种。

其学问之芯有三:融通儒释道为一灯、经史合参、以“做人”与身证为归。晚年定居苏州太湖之滨,2006年于吴江七都镇庙港太浦河畔创办太湖大学堂,首讲即以“禅修与生命科学”为题,与本栏伴读之《南禅七日》一脉相承。2012年9月29日逝于太湖大学堂,享年九十五。生于温州、闭关峨眉、讲学台湾、终老太湖——一盏灯,缓缓燃尽。今日在日本读他,非为解说,而为坐于灯下,与之伴读。