いよいよ第一夜である。一九九四年二月、厦門・南普陀寺の新築なった禅堂で、七十代半ばの南懐瑾が七日間の講座を始める。落成の儀を終えた住持・妙湛老和尚が「坐禅なくして学ぶ仏法は、水に浮いたようなもの」と挨拶し、南師にバトンを渡す。ここから灯りに火が入る。
私は「にせもの」だ
口を開いた南師が、まずすることは、自分を持ち上げないことである。老和尚が自分を「善知識(すぐれた導き手)」と紹介したのを、彼はすかさず退ける。あれは客の礼儀、真に受けてはいけない——そう言って、自らを次のようにまで言い切る。
自分の書いた本すら「あてにならない、本当に読むべきは仏典のほうだ」と突き放す。この一見の謙遜は、単なる照れではない。第一夜の全体が向かう問いを、静かに立てているのだ。すなわち——私たちは、人を頼っているのか、それとも法(真理そのもの)を頼っているのか。
四つの拠りどころ
その問いは、仏の遺した「四依」へとまっすぐ展開する。南師はこれを一つずつ噛み砕く。経を拠りどころとし論を拠りどころとせず。人を拠りどころとせず、法を拠りどころとする。
さらに、了義(徹底した教え)に依って不了義に依らず。智慧に依って知識・分別に依らず。ここで南師が繰り返し戒めるのは、仏教の用語をただ常識として口にする人である。「四大皆空」と言いながら、腹が減れば空とはいかず、寒ければ着ずにはいられない。名詞だけが達者で、その真の意味は身に落ちていない——それを彼は最もおそれる。仏法とは知識ではなく、高度の智慧の学びである、と。ここで彼は、経典とは何かも説く。『金剛経』が須菩提の問いから成るように、経とはもともと、生きた問答の記録なのだ、と。
佛門の一粒の米
話は、目の前に居並ぶ若い出家者たちへ向かう。彼らは本当に仏典を読み解けているのか、修行に手ごたえを得ているのか。南師は古い戒めの句を引く。仏門の一粒の米は須弥山ほどに重い。もし今生で道を了えなければ、来世は毛を披(き)て角を戴いて——牛馬となって——返さねばならない、と。布施を受けて生きる者への、峻烈な問いである。あわせて彼は、唐宋のむかし出家者がいかに敬われたかを語り、詩・書・画から古文まで身につけよ、まずは古典を自分で読めるようになれ、と繰り返す。灯りをともす前に、まず器を確かめているのだ。
打七とは「剋期取証」——釈迦の七日
ようやく本題、「打七」とは何かに入る。それは剋期取証——期を切って、証(さとり)を取る、という四文字に尽きる。南師はその原型を釈迦の求道にたどる。無想定を三年、非想非非想定を三年修めては「知非即捨」——これは違うと悟って捨て去り、さらに雪山で六年の苦行を重ねて、こう言い切る。
師をもはや求められなくなった釈迦は、菩提樹の下に草を敷いて坐り、「菩提を証さずばこの座を起たず」と誓う。期を切ったのだ。そして七日目の暁、明星を睹(み)て悟る。その第一声を南師はこう伝える——一切衆生は皆、如来の智慧と徳の相をそなえている。ただ妄想と執着ゆえに、それを証し得ないだけなのだ、と。ここで南師は鋭い刃を私たち自身に向ける。では、坐ろう坐ろうと励むその心は、妄想ではないのか。執着ではないのか。かといって坐らぬのも、また執着ではないのか——と。
なぜ「七日」なのか
では、なぜ七日なのか。南師はここで仏典を離れ、中国のもう一つの水脈へ橋を架ける。『易経』の「七日来復」。天地の気は七をひと巡りとして還ってくる——五日を一候、三候を一気、六候を一節とする暦のしくみも引きながら、七という数が生命と修行に深くかかわることを説く。仏の七日と、易の七日来復。二つの灯りが、ここでそっと重なる。
そして最後に、南師はこの七日の名を変える。妙湛老和尚に願い出て、「打七」ではなく——生命科学と禅修実践の研究、と。禅宗の禅堂で唐代の馬祖・百丈このかた磨かれてきた「打七」の作法を、彼はいったん脇へ置く。そのままの形式でやるなら、坐と経行をただ繰り返すことになる。それでは講じられない、と言うのだ。禅を、迷信でも神秘でもなく、生命そのものを問う実地の学として置き直す——名を変えるという小さな一手に、七日全体の姿勢が宿っている。
振り返れば、この第一夜に「坐りかた」や「呼吸法」といった具体的な技法は、まだほとんど出てこない。南師がしているのは、器を確かめ、拠りどころを問い、志を試すことである。人に依るな、法に依れ。名詞をもてあそぶな、身で証せ。期を切って、本気で問え。そのすべてが、明日から立ち上がる焔のための、灯芯を整える作業なのだ。私たちもまた、急いで「効く方法」を求める前に、この一夜の問いを一つ、手のなかに握っておきたい。