一、託せる人がいない——一つの講義の由来
2008年8月1日午後、のちに全二十講としてまとめられることになる連続講義の第一講で、南懐瑾はまず仏法の教理から話し始めたわけではありませんでした。最初にしたことは、僧俗五名の弟子を呼び、その場にいた受講者一人ひとりの坐り方を直させることでした。姿勢を直された人は遠慮せずその場で質問してよい、とも念を押しています(南懐瑾『伝統的身心性命修行の探究』第1講〈調正姿勢堪入門(姿勢を正してこそ入門できる)〉、印刷版第5ページ参照)。
この講義には『伝統的身心性命の学の探究』という題がつけられました。南懐瑾はあえて「認知科学」「生命科学」といった当時流行していた西洋的な言い回しを避けています。科学そのものを否定したのではなく、そうした学問は西洋ではまだ理論の枠組みにとどまり、代々の実証の積み重ねを欠いている、中国の伝統(インドから伝わり中国で保存された部分を含む)だけが、比較的完全な実証の系譜を残している、という判断があったからです。二十世紀の東西文化交流の中でも、似たような身心の学がさまざまな形で西へ伝わりましたが、多くは外側の型だけが残った、とも語っており、これも彼が「身心性命」という古い言葉にあえてこだわった理由の一つでした。
この日、南懐瑾は感情を高ぶらせる場面がありました。功名や家庭を手放せず、忙しいだけで結局何にも辿り着かない旧友たちのことを語り、自分の人生の中で本当に学問を託せる相手に出会えなかったことを語ります。この講座は一般公開の講座ではなく、縁のある古い友人たちと若い世代のために語るものだと本人が強調し、「莫将容易得、反作等閑看(たやすく得たものほど、人はかえっておろそかにしてしまう)」という古人の詩句を引いて聴衆に釘を刺しています(同講〈身心性命話縁起(身心性命を語る由来)〉、印刷版第15ページ参照)。この一言は、単なる社交辞令の枕詞というより、九十歳を超えた老人が、この学問がこの世代で途絶えてしまうのではないかと抱いていた率直な危惧だったと見るべきでしょう。この危惧を踏まえてはじめて、なぜ彼が第一講を坐り方から始めたのかが理解できます。
二、なぜ最初に坐り方を直したのか
東洋の身心の学についての教養講座を思い浮かべるなら、いきなり坐り方の矯正から始まるのは、いささか「学術的」に見えないかもしれません。しかしこれこそ南懐瑾の一貫した教え方でした。彼は繰り返し、理屈が通ることと、実際にできることは別物だと強調します。華厳宗には理無礙・事無礙・理事無礙・事事無礙という四つの境地がありますが、彼はこの枠組みを借りて、当代の「学者」の多くは第一段階の「理」で止まっており、「事」の一歩を本当には踏み出していないと批判しました。
坐り方は、もっとも基礎的で、もっとも検証しやすい「事」です。背筋が伸びているかどうかは目に見える。頭で分かっている理屈を身体まで落とし込めているかどうか、坐り方はもっとも正直な証拠になります。だからこの講義は抽象的な教理からではなく、いま目の前の坐り方が正しいかどうかという一点から始まった。これは儀礼的な前振りではなく、知(理解)と行(実践)が本当に一致しているかを確かめる、最初の現場検証だったのです。
三、坐り方の背後にある身心のロジック
坐り方を直しながら、南懐瑾はいくつもの生活上の細部にも触れています。坐禅を終えたあとの毛布のたたみ方、靴の置き方(在家の弟子は靴先を前に、出家者はかかとを揃えて置く)。彼はこうした細部を通じて、生活のだらしなさや年長者ぶった態度を改めるよう促しました。彼にとって、こうした細部と姿勢の正しさは同じことの両面だったのです。修行は座布団の上で始まるものではなく、座布団の外の一挙手一投足も同じ功夫の延長にある、という考え方です。
また、自分の声が大きいのは気力が充実しているためであって、叱っているのではないと念を押す場面もありました。この小さな挿話自体も一つの示範です。人の口調・姿勢・感情は、もともと一続きのものであって、切り離して見るべきものではない、というわけです。
注目すべきは、この回の講義では具体的な呼吸法や坐禅の手順はいっさい教えられていない点です。南懐瑾が求めたのは、姿勢を正し、心を静めて話を聞くこと、それだけでした。坐っていられない人は籐椅子を使ってよいとされ、今回の話自体は正式な坐禅を要求するものではないと繰り返し断っています。つまりここでの坐り方の意味は、何らかの功法への入口ではなく、まず身体という一つの事実を実らせる態度の訓練だったといえます。
四、「両足尊」——教理から功夫へ
坐り方の話から三帰依へ移るくだりが、この講の最も興味深い転換点です(〈功夫貫通両足尊(功夫は両足尊に貫通する)〉、印刷版第7ページ参照)。三帰依の偈にある「皈依仏両足尊」は、教理上は古くから「福徳が具わり、智慧が具わっている」ことだと解釈されてきました。「両足」は「両方とも具わる」という意味です。南懐瑾はこの教理どおりの解釈を語ったうえで、さらに自分なりの功夫的な読み替えを加えます。すなわち修行では両脚を貫き通すことが必要であり、赤ん坊は脚をよく動かし、老人の衰えはしばしば下肢から始まることを例に挙げて、腰から下を通すことが坐禅入門の根本だと説きました。
ここははっきりさせておく必要があります。これは南懐瑾個人の解釈の視点であって、仏教の三帰依の偈についての教理上の通説ではありません。伝統的な訓詁における「両足尊」は、人間の両脚と文字どおり対応するものではないのです。とはいえ、この個人的な読み替えだけを取り出して見れば、その趣旨自体は素朴なものです。身心の学は「福徳智慧が具わる」といった抽象的な教理だけにとどまってはならず、今日その人が立っている姿、坐っている姿、歩いている姿にまで落とし込めなければならない、ということです。これは坐り方をめぐる論理と通じています。理屈がどれほど完璧でも、両足が立たなければ、まだ「至った」とは言えない、というわけです。
五、「未有神仙不読書」
第一講が坐り方から入ったとすれば、それに続く第三講で南懐瑾はすぐに話をもう一つの面——読書——へと転じています。清代の詩人・舒位の「呂翁祠」という詩を引き、「未有神仙不読書(読書をしない神仙などいない)」という一句をこの回の要とし、弟子に湖南訛りと閩南語でそれぞれ朗誦させました。中国の古典詩は本来、朗誦と音韻を重んじる伝統であって、目だけで黙読する文字遊びではない、と説明するためです(〈未有神仙不読書〉、印刷版第77ページ参照)。
この詩句が向けられているのは、「修行」と「読書」を別々の道——一方は身体の功夫、一方は文字の知識——であり、互いに関係がない、あるいは互いの足を引っ張り合うものだという、よくある誤解です。南懐瑾はこの詩でその二分法に反論しました。本人は正規の学歴を持たず、学問の多くは家学と独学によるものだと自ら語り、自分の学識の一部については「生来就清楚(生まれつきわかっていた)」とまで述べています(南懐瑾『伝統的身心性命修行の探究』(2008年講録・内部書き起こし版)、第1講〈書到今生読已迟(書物はこの生で読んでは既に遅い)〉、印刷版第26ページ)。しかしこれは読書を軽んじたということではありません。むしろ逆で、少年時代、杭州西湖の閑地庵で武術を教える代わりに道書を読ませてもらい、そこから『金剛経』に触れ、「無人相、無我相、無衆生相」の一節を読んだときに強い衝撃を受け、しばらく言葉を失ったと語っています。この経験が示しているのは、彼にとって読書とは知識の蓄積ではなく、身心が実際に揺さぶられ、痕跡を残す過程だったということです。これもまた一つの「事」なのです。
六、坐る・読む・人としてふるまう——一つのことの三つの面
この二つの講義の筋をあわせて見ると、南懐瑾は坐り方・読書・人としてのふるまいを、三つの別々の科目として語っていたわけではないことが分かります。姿勢を正すのは、身体による「真剣さ」への態度表明です。読書に本当に入り込めるのは、心による「真剣さ」への態度表明です。そして人と接するときに誠実であるか、年長者ぶらないか、他人の善意を当然のことと受け取らないか——これは行動による「真剣さ」への態度表明です。三つは同じ核を共有している。南懐瑾は理と事という対概念を繰り返し使って、道理を理解するのは難しくない、難しいのは一つひとつ具体的な小さな事を実らせることだ、と説きました。
だからこそ彼は、坐り方を直す同じ講義の中で、さりげなく靴の置き方を正し、三帰依の教理を語りながら功夫的な読み替えを差し挟み、読書の伝統を語りながら人としての態度についての注意を繰り返し挟み込んだのです。これは話題が飛んでいるのではなく、彼の考える身心性命の学の本来の姿でした。科目に分かれてはおらず、一つの事が異なる角度から繰り返し検証されている、という姿です。
七、今日からできる三つの小さなこと
この筋道は最終的に、一般の読者の日常へと戻さなければなりません。修行入門マニュアルになってしまってはいけないのです。南懐瑾のこの二つの講義が残しているのは、実は誰でも今日から始められる三つの小さなことであって、特別な方法も場所も体験も必要としません。
一つ目は、椅子に正しく坐ること。坐禅の構えを取る必要はありません。読書をするとき、仕事をするとき、人と話すときに、自分の姿勢が崩れていないか、年長者ぶった態度で身近な人に接していないか、気にかけるだけでよいのです。
二つ目は、一頁をゆっくり読むこと。たくさん読むことを目指すのではなく、自分が本当に文字に心を動かされたことがあるかどうかに目を向けます。たとえ一文にはっと立ち止まるだけでも、その一瞬の揺さぶりは、百頁を読んで何も感じないことより、南懐瑾のいう「事」に近いものです。
三つ目は、一つの返答を穏やかにすること。声が大きいことは叱っていることと同じではなく、感情が急いていることは修行が足りないことと同じでもありません。しかし口調や態度に少しでも思いやりを持てるかどうかは、周りの人にいちばん見える功夫です。
この三つには、どれ一つとして手順書は要りません。どれ一つとして特別な体験や効果を約束するものでもありません。共通しているのはただ一つ、真剣であることを求めている点です。それこそ、南懐瑾が第一講の冒頭で、坐り方を直すことを通じて示そうとしたものだったのでしょう。二十講の連続講義はこのあともまだ長く続き、止観、唯識、四無量心といったさまざまな主題が語られていきますが、この回が残した出発点はいつも同じです。まず目の前の小さな一事を実らせてから、次のことを語る、ということです。