一、山門の内と外――「通例」をもう一歩疑ってみる
多くの人が漢伝仏教のお寺を訪れるとき、足の運びはすでに一つの型に沿っています。まず山門をくぐり、次に威厳のある像が並ぶお堂を抜け、最後に本堂の前に立って、横に並んだ三体の仏像を見上げる。この順路に慣れてしまうと、「仏教が伝わって二千年、お寺というのは昔からこういうものだ」と思い込みがちです。
2008年、南懐瑾は連続講義の第16講で「叢林建制大話頭」という一節を設け、この軸線上のあらゆる像に意味を読み込みました。山門の哼哈二将(こんかにしょう)、天王殿の四大金剛と弥勒、韋駄天、本堂の三尊仏――彼の講義では、これらは単なる建築上の飾りではなく、仏教の教理を「空間化」した一続きの象徴言語であり、山門をくぐってから本堂の前に立つまでの道のりそのものが、あらかじめ設計された教理の動線だというわけです。
ただ、ここで一つはっきりさせておきたいことがあります。この「山門―天王殿―本堂」と順に進む中軸線の配置は、仏教にもとから備わっていた固定形式ではなく、明代(14~17世紀)になってようやく定型化した歴史的な制度だという点です。南北朝から隋唐にかけて、漢地の仏寺は長らく仏塔を絶対的な中心としていました(北魏・洛陽の永宁寺に見られる「塔が前、殿が後ろ」という配置が典型です)。唐宋の間に仏殿が仏塔に代わって中軸の核心を占めるようになり、明代にいたってはじめて「山門、天王殿、本堂、後殿あるいは法堂」という、礼拝の動線を中心に据えた配置が定型化し、今日まで受け継がれています。つまり、私たちが明清以降に建立・改築された漢伝寺院で目にする「標準的な順路」は、千年以上にわたる変遷の末に落ち着いた一つの結果であって、仏教の教理そのものが定めた固定の配置ではないのです。この前提を踏まえたうえで南懐瑾の象徴体系を読むと、彼が語っているのはこの後発的に定型化した空間言語が「何を語っているか」であって、仏教が誕生した当初からこの形であったということではない、という点がより明確になります。
二、山門をくぐる――哼哈二将と四大金剛は何を語るか
お寺の最初の門は多くの場合「山門」、あるいは「三門」とも書かれ、「空・無相・無作」という三つの解脱門を意味します。この門をくぐることは、外の喧騒に別れを告げ、異なる時間と心持ちに入ることを象徴しています。
山門の両脇にはしばしば、恐ろしい形相の金剛力士像が二体立っており、俗に「哼哈二将」と呼ばれます。一体は口を開けて「哼(フン)」の音を発し、もう一体は口を閉じて「哈(ハ)」の音を発する姿をしています。南懐瑾はこの二像を呼吸の法門と結びつけて講じました。一つの開き、一つの閉じ、一つの「哼」、一つの「哈」――もっとも基礎的な身心の営みである呼吸を、像という形で門口に立てているのだ、と。まだ本堂に入ってもいないうちから、もっとも根本的な一事、すなわち呼吸への気づきを促されているというわけです。
さらに奥へ進むと、天王殿の両脇にはしばしば四大金剛(四天王――持国天、増長天、広目天、多聞天)が控えています。民間ではこの四天王が手にする法器の名を、「風調雨順(気候が順調であること)」の四文字にそれぞれ語呂合わせすることがよく行われます。琵琶を持つ持国天は弦を「調える」、剣を持つ増長天は「風」、龍を絡める広目天は「順」、傘を差す多聞天は「雨」、というように。この語呂合わせは寺院見学の案内でもっともよく耳にする説明の一つですが、断っておく必要があるのは、これは中国の民間による通俗的なこじつけの解釈であって、インド仏教の原初の教理がこれらの法器にそのような意味を定めていたわけではない、という点です。読者がこの説明を耳にしたときは、興味深い中国式の連想として受け取るのがよいでしょう。南懐瑾自身は、この四像をむしろ「見・聞・覚・知」という仏教の一組の概念に結びつけて講じています。四天王が四方を守る姿は、感覚によって見聞きすることそのものが、修行がまず向き合わねばならない最初の課題であることを思い起こさせる、というわけです。
三、天王殿――一つの「容」、一つの「護」、一句の「風調雨順」
天王殿の正面中央には、たいてい上半身をはだけ、大きな腹を突き出し、いつも笑っている弥勒菩薩像が祀られています。いわゆる「大肚弥勒(布袋の弥勒)」です。この像の原型は、五代・後梁の時代に「長汀子布袋師」と号した僧、契此です。いつも布袋を背負って諸国を歩き、臨終に「弥勒真弥勒、分身千百億」という偈を残し、後世、弥勒菩薩の化身とみなされるようになりました。明代以降、この笑顔の布袋和尚像は、天下の叢林(禅林)によって山門殿あるいは天王殿の正面、入口を迎える位置に安置されるのが定型となり、今日まで続いています。
南懐瑾はこの像を講じる際、寺院でよく見かける対聯の一句「大肚能容」を引いています――大きな腹はよく容れる、天下の容れがたきことを容れ。口を開けば笑う、世間の笑うべき人を笑う(南懐瑾『伝統的身心性命修行の探究』〔2008年講録・内部書き起こし版〕、第16講〈叢林建制大話頭〉、印刷版546ページ)。彼はこの像を「慈悲喜捨」という四無量心のうち、とりわけ「喜」と「捨」の二字に結びつけて講じました。世間のさまざまな至らなさを笑って受け入れられること自体が、極めて到達しがたい功夫であり、天王殿はこの功夫を門口に立てることで、入ってくる一人ひとりにまず気づきを促しているのだ、というのです。
弥勒像の背後には、剣を手に立ち、本堂の方を向いた韋駄天(韋駄菩薩)像が置かれることが一般的です。韋駄天は仏教の伝承に登場する護法の神で、賢劫のうちに九百九十九の仏が次々と成道するのを護持することを誓い、自らは最後に「楼至仏」という名で成仏すると伝えられています――これは仏教の典籍にしばしば見られる護法の伝承であり、史実として検証できる出来事ではなく、信仰上の物語として理解すべきものです。韋駄天像の姿には、伝統的な叢林の制度において実際上の意味もありました。杵を肩に担いでいれば、諸方の雲水僧を分け隔てなく受け入れる「十方叢林」を意味し、杵を地に立てていれば、外来の僧を容易には受け入れない「子孫叢林」を意味したといいます。南懐瑾は講義の中で「僧の顔を見ずとも仏の顔を見よ」ということわざに触れています。これはまさにこの慣習に由来する言葉で、たとえ寺院に独自の規矩があっても、仏の面目に免じて遠来の僧に一定の礼を尽くすべきだ、という意味です。
四、本堂――三体の仏はなぜ「三体の偶像」にとどまらないか
天王殿を抜けると、正面に見えてくるのが寺院全体の核心をなす建物、本堂(大雄宝殿)です。「大雄」とは釈迦牟尼仏への尊称で、「大いなる力を持ち、雄々しく畏れることがない」という意味です。堂内にはしばしば三体の仏像が並んで祀られており、多くの参拝者はこれを「盛大に見せるための追加の仏像」程度に受け取りがちですが、南懐瑾は講義の中で、この三体を大乗仏教の「法・報・化」の三身説に対応させて説明しています。中央の毘盧遮那仏は「法身」、すなわち仏法そのものの本体を表し、一方の盧舎那仏は「報身」、すなわち修行が円満に成就した際に現れる荘厳な相を表し、もう一方の釈迦牟尼仏(あるいは他の化身仏)は「化身」、すなわち縁に応じて世に現れ、衆生を教化する具体的な姿を表す、というのです。
三体の仏が並んで座す姿が語っているのは、実は「同じ一つの仏」の三つの側面――本体、荘厳な相、そして世に応じる働き――です。山門で呼吸への気づきを促され、天王殿で「容れる」ことと「護る」ことを見せられ、最後に本堂の前でこの三体の仏を見上げる。この道のりは、いわば「身」から「心」、そして「働き」へと至る一つの象徴的な動線でもあります。これこそ南懐瑾が伽藍の配置全体を一つの「大きな話頭(公案)」と呼んだ理由であり、この道そのものが繰り返し参究するに値する一つの問いなのだということです。
五、「昔からこうだった」わけではないとしたら――チベット仏教の伽藍が示すもう一つの可能性
先に述べたように、「山門―天王殿―本堂」という中軸の通例は、明代になってようやく定型化した産物です。このことを本当に理解するには、同じ仏教を奉じながらまったく異なる建築の道を歩んだ、もう二つの体系を見てみるのが早道です。
チベット仏教の寺院はその最も分かりやすい対照例です。チベットの寺院は総じて自由な配置をとり、漢地のような厳格な中軸対称は見られません。全体としては「曼荼羅」の精神に近い形で空間が組織され、各堂宇や僧房は中心となる仏殿の周りに自由に展開し、個々の建物もチベット式の厚い壁と平らな屋根を持つ様式であって、漢地の木造の大殿とは様式そのものが異なります。チベットの寺院に入っても、「まずどの門をくぐり、次にどの堂に入るか」といった固定された順路は見出せません。このこと自体が、「中軸線に沿って順に進む」という配置が、仏教建築に本来求められた教義上の決まりごとでは決してなく、漢地が特定の歴史的段階で選び取った一つの建築上の選択であったことを物語っています。
六、日本の仿唐伽藍――塔と金堂の分離と併存
二つ目の対照例は、日本古代の伽藍そのものです。これは本稿が特に日本の読者に注目していただきたい点でもあります。
飛鳥時代に伝来した「四天王寺式」伽藍は、中国の南北朝から隋にかけての「塔を中心とする」配置をほぼそのまま取り入れたものでした。南大門、中門、塔、金堂、講堂が同じ中軸線上に順に並び、塔が寺院全体でもっとも核心的な位置を占めていました。しかし間もなく、法隆寺に代表される「法隆寺式」伽藍は独自の道を歩み始めます。塔と金堂が東西に並び立つ形に改められ、厳密な前後対称ではなくなり、講堂は北側に退く。塔と金堂の関係は、「塔が絶対的な主、金堂が従」という関係から、次第に両者が並び立つ、あるいは互いに従属し合わない関係へと移っていったのです。
この変遷の道筋は、漢地における「塔が中心から本殿の後ろへと退き、最終的に殿が中軸の主位を占める」という一本道の変遷とは異なります。つまり、「塔と殿、どちらを中央に据えるか」という同じ問いに対して、日本古代の伽藍と、その後の漢地の叢林とでは、異なる答えが出されたということです。このこともまた、中軸に沿って順に進む「通例」が東アジアの仏教寺院に共通する必然の形ではなく、それぞれの土地が独自に選び取った歴史の結果であることを、別の角度から裏づけています。
七、日本の読者へ――同じ言葉でも、読み方は一つではない
日本の読者にとって、お寺を訪れたときに目にする配置は、漢地の「標準的な順路」と似ている部分もあれば、異なる部分も少なくありません。入唐・入宋した禅宗の系統(臨済宗、曹洞宗の大規模寺院の一部など)は、確かに漢地の叢林制度の影響を受けており、山門と仏殿が中軸に沿って並ぶ配置もそう馴染みのないものではありません。しかし、より古い奈良時代・平安時代の伽藍や、独自の変遷を経た寺院では、中核の建物はしばしば「本堂」ではなく「金堂」と呼ばれ、祀られる本尊の組み合わせや伽藍配置の力点もそれぞれに違いがあり、漢地の「弥勒―韋駄天―三身仏」という対応関係をそのまま当てはめる必要はありません。
言い換えれば、「教理を空間化する」という同じ発想が、中国では明代以降の叢林制度のもとで、比較的固定された一つの順路として結実した一方、日本では伝来の時代やそれぞれの宗派の変遷が異なるために、より豊かで統一されない姿として現れています。これこそが「お寺を読む」という営みのもっとも興味深いところです。一つの物差しですべての寺院を測って「標準かどうか」を判定するのではなく、まず目の前のこの寺院が歴史上のどの道を歩んできたのかを確かめること、それが出発点になります。
八、次にお寺を訪れたとき、どう「読む」か
最初の問いに戻りましょう。お寺の建築配置は、はたして「昔からこうだった」固定の象徴体系なのでしょうか。答えは否です。しかしそれは、お寺が「読む」に値しないということでは決してありません。むしろ逆で、この中軸線が歴史の変遷、制度の定型化、民間信仰の積み重ねという幾重もの層が折り重なった産物だからこそ、それは一冊の説明書というより、たどっていける一つの文章のようなものになっているのです。
次にお寺を訪れるとき(それが中国であれ、日本であれ)、次の三つの問いを携えてみてはいかがでしょうか。この寺院の中核建築は、歴史上「塔を重んじる」系統に近いのか、「殿を重んじる」系統に近いのか。目の前のこの順路は、明清以降に定型化した「山門―天王殿―本堂」の配置なのか、それとも別の道を歩んできたものなのか。そして、像や扁額に見える一つひとつの細部――対聯の一句、手の印相、手にした法器――は、仏典そのものの定めなのか、それともある時代、ある土地で積み重ねられた民間の解釈なのか。この三つの問いを携えて一巡りしてみると、お寺はただの観光名所ではなく、ゆっくり読み進めていける一つの歴史になるはずです。
さらに一歩進めて、日本各地のお寺を実際に足を運んで巡り、この空間の言語を本物の建築の動線と照らし合わせながら確かめてみたいという方のために、私たちは日本各地の寺社を深く案内する専門の巡礼コーナーを別に用意しています。ご興味があれば、ぜひそちらもご覧ください。